No.03
土佐はもともと関ヶ原の戦いで西軍に属して負けた長曽我部盛親のもので、坂本家はその長曽我部家の家来でした。
土佐の軍隊は少数の長曽我部直臣と農耕を主生活とする郷士によって編成されていました。長曽我部氏は戦力強化のために兵農分離を課題としていましたが果たせぬまま没落します。戦ののち、徳川方の人間であった山内一豊が土佐藩主となり長曽我部家の領地は没収されました。長曽我部家の遺臣となった武士は山内家の藩士よりも下の身分の郷士として長い間厳しい身分制度下に置かれました。郷士は武士身分を有し名字帯刀は許されているが扶持はもらえません。扶持とは禄米のことで、扶持がもらえない郷士は自給自足で生活していました。郷士は権力に乏しく武士としての義務が薄い立場。自分自身の意志と力だけが頼りであった龍馬が生涯を通して客観的であったのは郷士であったからなのでしょう。
龍馬が江戸に出立したのは文献等では剣術修行のためとなっていますが、当時ある程度裕福な下流武士の子どもは砲術を学ぶという流れが多かったそうです。それは主人公の家はイザという時に困らないように大砲の操作法を代々伝え守っていくという教えがあったからです。下流武士の中でもお金があまりない武士のこどもは鉄砲を、余裕がある武士のこどもは大砲打ちの術を学ぶことが一般的な流れでした。坂本家は当時比較的裕福な家庭だったのでこの流れから江戸へ行くのは必然だったようです。坂本家の母胎は商人であった才谷屋。(龍馬の変名に才谷梅太郎があります)坂本家は他にも明智光秀の子、秀満の遺児の末裔だという説もあり、商人であったが先祖は武士だったとの想いから、郷士となったという諸説もあります。郷士の家に生まれた龍馬は信州松代藩士である、佐久間象山の砲術塾に入門し砲術を学びました。佐久間象山はペリー来航以前から海防の必要性に目覚め、蘭学や砲術の勉強を行っていました。象山にとって開国は必然で、日本の不利益を回避しつつ開国に向かうための知恵を求めており、象山のこの考え方は龍馬の開国賛成に大いに影響していると言えます。勝海舟も同じく佐久間象山に学びました。